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● 序曲は終わらない… Update 08/22
● ベートーベンは難聴? Update 07/26
   
  
Update 08/22
● 序曲は終わらない…
 昨年 9/27 アップ「オケピットは音がいい?」の中で、私の大好きなオペラについて少し話しました。 オペラ本体を手がけるようになる以前も、その序曲("Overture"と云います)は自分でも大好きな作品形態のひとつとして、ブラスバンド/オーケストラ/連弾などいろいろな形で演奏に携わってきていました。 まさに「序・破・急」そのものゝ様式の中で短い時間に凝縮されるドラマは、とっても魅力的な世界です。 もし今まであんまり縁のなかった人は、映画の予告編(本編のいろんなシーンが次々と展開されるあの感じ)のようなものだと思ってもらえれば良いかと思いますよ。
 音楽的な演出の面からも演奏効果の高い作品が多くって、ヨーロッパのコンサートなどではプログラムのラストに置かれたりすることもしばしばです。 今では序曲だけしか残っていない作品や、本編の作曲は前提としないで、この魅力的な音楽のスタイルだけを借りて(?)書かれた作品もけっこう多いです。 自分で書いていてもワクワクして面白い世界なので、名曲をものした大作曲家たちは、さぞかし楽しみながら書いていたんじゃないでしょうか…ね。
   
オペラ「魔笛」(稲見俊男指揮 東京フェスティバルオーケストラ)
 前置きが長くなりました。 じゃ、初めてのフルオペラの本番を迎えて、序曲をスタートしたところから話を始めましょう。 そう、それこそ上記予告編のようにいろいろなパッセージがオケピットを、そしてホールを舞い飛んで、舞台両袖ではソリスト・合唱・バレエ等たくさんの人たちがモニターとにらめっこ…。
 
 この1幕目の緞帳が上がるまでの「えも言われぬ時間」、もう演奏を始めてしまっている指揮者やオーケストラは救われている(?)のですが、これから出番の人たちの緊張感たるや、もうきっと「快感」としか言い得ない境地でしょう … ん? 怒られるかな(笑)。
  ただ!! ただ、いよいよ序曲の終和音をフェルマータしてみんなの出番を迎えようとする時に、今までとは180度違った感覚が…。 いつもは終わりの合図(?)だったこの音が、「ここから始まるんだ〜!」。
   
 コンサートプログラムでの序曲は、その演奏が終われば世界を閉じるわけだけれど、オペラの(つまり本来の)序曲は、その終わりは次の大きなおゝきな世界の始まりであるわけです(始まりでしかないと云うべきなのかな…)。 この当り前のことにその時まで気付かないでいた、と言うよりも私にはその実感がなかったわけで、とっても大きなインパクトを持って訪れた出来事でした(本番中にそんなこと考えてる奴があるか〜!(笑))。
 たくさんの名指揮者たちがヨーロッパの田舎町の歌劇場から生まれてきたり、コンサート指揮者が突如オペラを目指したり、この辺りのいきさつには西洋音楽の根幹に関わるところ(西洋文化のと言い替えてもいゝかも)として見過ごすことのできない、いくつもの大きな要素があると思います。

 またまたちょっとヨコ道かも? でも全体の把握と云う意味で、気付いた時にひと言…(笑)。音大生も含めて、演奏家/プレイヤー諸氏は曲の細かい部分の技術的処理に対しての云々には、それこそものすごい情熱を傾けて立ち向かうんだけれど、時として全体からの把握がポロッと抜け落ちていて、「もっと大きいフレーズで捉えたほうが自然に流れるのに〜!」と感じさせられる時が多々あります…。
 ソプラノのAさん!、某アリアの「彼女こだわりの部分」について、声楽のレッスンでも散々「あゝでもない!」「こうでもない!」とエネルギーを注ぎ込んでいました。 で、ある日!大枚はたいてそのオペラ(ミラノスカラ座だったかな?)を楽しみに観に、聴きに出かけたんですねぇ。 ところが件のアリアは、実に何事もなかったようにサラッと演奏されてしまって「あれゝ?あれ〜! わたしの"命"はどこ?どこなの〜〜!!」。
 何事もなく自然に演奏できると云うことは、もちろん細心の技術の裏付けがあってのことなのだけれど、細心の技術だけで終わらせない視点も持つようにしなければ…ね。 演奏に対してだけ言えることではないですが、全体の中のその部分をしっかり掴むためにも「演奏にだってアナリーゼが大切ですよ!」と説く由縁です。

 昨年暮だったか日本TVの方からお電話があって、今「おうちで指揮者」なる本が流行っているのだと云う話を聞きました。 現本を目にしていませんし正確なタイトルも確認していませんが、何れにせよ音楽人口そのものが増えて行くのは素晴しいです。
 それも若い世代だけではなくて、この本の読者層だと云うシルバーを含む高年齢層の男性にも、そう云う感覚が生まれてきているんだとすればなおさら。 それ自体、ロマンが感じられるじゃないですか、ねぇ!
   
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Update 07/26
● ベートーベンは難聴?
 
 
「大作曲家ベートーベンは、晩年に耳が聞こえなくなってしまったにも関わらず、その強い意思と精神力でたくさんの名曲を作り続けて行ったのでした…」
 誰もがよくご存じのこの事実を、私が初めて耳にしたのは小学校でだったろうか、はたまた当時普及し始めのTVだったか、それとも周囲の心ある大人からだったんだろうか! 「音楽をしているのに音が聞けなくなってしまう…そんな絶望的な状態の中でも作曲を?」に、子供心にも「なんて強い人間なんだろう!」と多くの人たち同じように感動、そして自分の尊敬に値する人のひとりにも数えていたと思います。
 まぁ、それ自体とくに耳あたらしいにトピックにはならない訳だけれど、過日リハーサル時の待ち時間にけっこうかしましく取り上げられていて、そこには思いのほか大切な要素が内包されているようにも感じたので、こゝに持ち込んでみることにしました。
   
 そこでの話の中心は、ベートーベンは全く耳が聞こえなかったのではなくて、いわゆる難聴状態で少しは聞こえていたんじゃないか!と云う辺りのことだったのですが、もう少し作曲と云う作業の面からも考えてみてほしくなって、一緒にそのかしまし談義に加わらせてもらっていました。
 彼の耳の詳しい状態については研究的に調べ上げたような書物もあるようだし、私なんぞの触れる領域とも少し違うように思えるのでそちらにお任せするとして、きょうは作曲をする耳と、音を聞く耳、この「2つの耳」の話…。

 きれいな音や美しい音楽を耳にする快感は音楽を愛する人にとってたぶん共通で、ひとつの前提でもある訳だけれど、作曲家の創作にとって「物理的に音が聞こえているかどうか」は、どちらかと云うと副次的要素でしかないと言っても良いのかも知れません(とくにベートーベンほどの人であるならなおさら)。
 うまい下手の問題ではなくって「ギターを爪弾きながら」「未熟なチェロを奏でながら」時の流れを感じると云うことも、音楽の魅力として充分に意味を持って存在する訳だけれど、その材料となるべく曲を用意しようとする作曲家たち(プロであろうとアマであろうと)は、何らかの魅力的な音(時々でその素材がメロディであったり、リズムであったりハーモニーであったり、はたまた別の興味深い要素であったりはするでしょうが)を追いかけて、創作の空間をさまよって行くことになります。
 それこそ「耳」を使って(駆使してかな?)、曲作りの楽しさを満喫しながらの作業を進める人も多いのかも知れません。
   
 でもちょっと考えてみてください。 曲作りの本質的な部分って、ほとんど「楽器を必要としてはいなかったんじゃないかな?」ってことに気付く人も、逆に多いのでは…? つまり、イマジネーション(想起)の段階で頭の中に多くの音や音楽の形が鳴って、その音やスタイルを求めて実際の音を探している自分の姿に思い当たる人が、結構いるんじゃないでしょうか。
 そう、作曲のスタート段階では顔の両側にある耳での作業ではなくって、もっと中心に近い部分の「耳」で作業していることになるわけだ!

 で、かしまし談義に話を戻すと、ベートーベンも耳が聞こえなくなって行ったことで「その精神的痛手ははかり知れないほど大きかったとしても、作曲の作業そのものや段取りとしては、その話を初めて耳にした当時のわたしが、"なんてスゴイことなんだ!"と驚いたほどの大問題ではなかったのかも知れないね」を、その場で口にして来た訳なんです。

 でもでも、その精神な痛手を乗り越えてかつ自分の目的に向かって生きて行けたと云うことが、やっぱりスゴイことなんだよね。 日々酒に逃げている軟弱者の"とし"が、なに口はばったいこと言ってるんだ! このやろ!ってとこだろうか…ね。
   
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