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Update 08/22
● 序曲は終わらない…
昨年 9/27 アップ「オケピットは音がいい?」の中で、私の大好きなオペラについて少し話しました。 オペラ本体を手がけるようになる以前も、その序曲("Overture"と云います)は自分でも大好きな作品形態のひとつとして、ブラスバンド/オーケストラ/連弾などいろいろな形で演奏に携わってきていました。 まさに「序・破・急」そのものゝ様式の中で短い時間に凝縮されるドラマは、とっても魅力的な世界です。 もし今まであんまり縁のなかった人は、映画の予告編(本編のいろんなシーンが次々と展開されるあの感じ)のようなものだと思ってもらえれば良いかと思いますよ。
音楽的な演出の面からも演奏効果の高い作品が多くって、ヨーロッパのコンサートなどではプログラムのラストに置かれたりすることもしばしばです。 今では序曲だけしか残っていない作品や、本編の作曲は前提としないで、この魅力的な音楽のスタイルだけを借りて(?)書かれた作品もけっこう多いです。 自分で書いていてもワクワクして面白い世界なので、名曲をものした大作曲家たちは、さぞかし楽しみながら書いていたんじゃないでしょうか…ね。
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前置きが長くなりました。 じゃ、初めてのフルオペラの本番を迎えて、序曲をスタートしたところから話を始めましょう。 そう、それこそ上記予告編のようにいろいろなパッセージがオケピットを、そしてホールを舞い飛んで、舞台両袖ではソリスト・合唱・バレエ等たくさんの人たちがモニターとにらめっこ…。
この1幕目の緞帳が上がるまでの「えも言われぬ時間」、もう演奏を始めてしまっている指揮者やオーケストラは救われている(?)のですが、これから出番の人たちの緊張感たるや、もうきっと「快感」としか言い得ない境地でしょう … ん? 怒られるかな(笑)。
ただ!! ただ、いよいよ序曲の終和音をフェルマータしてみんなの出番を迎えようとする時に、今までとは180度違った感覚が…。 いつもは終わりの合図(?)だったこの音が、「ここから始まるんだ〜!」。 |
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コンサートプログラムでの序曲は、その演奏が終われば世界を閉じるわけだけれど、オペラの(つまり本来の)序曲は、その終わりは次の大きなおゝきな世界の始まりであるわけです(始まりでしかないと云うべきなのかな…)。 この当り前のことにその時まで気付かないでいた、と言うよりも私にはその実感がなかったわけで、とっても大きなインパクトを持って訪れた出来事でした(本番中にそんなこと考えてる奴があるか〜!(笑))。
たくさんの名指揮者たちがヨーロッパの田舎町の歌劇場から生まれてきたり、コンサート指揮者が突如オペラを目指したり、この辺りのいきさつには西洋音楽の根幹に関わるところ(西洋文化のと言い替えてもいゝかも)として見過ごすことのできない、いくつもの大きな要素があると思います。
またまたちょっとヨコ道かも? でも全体の把握と云う意味で、気付いた時にひと言…(笑)。音大生も含めて、演奏家/プレイヤー諸氏は曲の細かい部分の技術的処理に対しての云々には、それこそものすごい情熱を傾けて立ち向かうんだけれど、時として全体からの把握がポロッと抜け落ちていて、「もっと大きいフレーズで捉えたほうが自然に流れるのに〜!」と感じさせられる時が多々あります…。
ソプラノのAさん!、某アリアの「彼女こだわりの部分」について、声楽のレッスンでも散々「あゝでもない!」「こうでもない!」とエネルギーを注ぎ込んでいました。 で、ある日!大枚はたいてそのオペラ(ミラノスカラ座だったかな?)を楽しみに観に、聴きに出かけたんですねぇ。 ところが件のアリアは、実に何事もなかったようにサラッと演奏されてしまって「あれゝ?あれ〜! わたしの"命"はどこ?どこなの〜〜!!」。
何事もなく自然に演奏できると云うことは、もちろん細心の技術の裏付けがあってのことなのだけれど、細心の技術だけで終わらせない視点も持つようにしなければ…ね。 演奏に対してだけ言えることではないですが、全体の中のその部分をしっかり掴むためにも「演奏にだってアナリーゼが大切ですよ!」と説く由縁です。
昨年暮だったか日本TVの方からお電話があって、今「おうちで指揮者」なる本が流行っているのだと云う話を聞きました。 現本を目にしていませんし正確なタイトルも確認していませんが、何れにせよ音楽人口そのものが増えて行くのは素晴しいです。
それも若い世代だけではなくて、この本の読者層だと云うシルバーを含む高年齢層の男性にも、そう云う感覚が生まれてきているんだとすればなおさら。 それ自体、ロマンが感じられるじゃないですか、ねぇ!
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