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「長〜いメール」で作曲談義!#2 Update 11/06
「長〜いメール」で作曲談義!  Update 10/10
   
   
Update 11/06
●「長〜いメール」で作曲談義! #2

 夏にこのHPを開いて初めてのオンシーズン(仕事の)に、更新が遅れに遅れてごめんなさい。 もう11月ですが、アップの遅れと内容の関連で10月ページに同居します。

 9月に犀星情報の提供で掲示板カキコくださった長谷部宏行さんは ( その辺りはまた「犀星ルーム」のトピックで触れますね)、作曲もなさると云うこと。 そのメールでは10/19付の当欄への質問等も含まれていて、且つまた別の面白い部分の言及にもなって行ってます。 工房談話室でご本人も了解くださっていましたので、続けて同じテーマできょうは長谷部さんとのやり取りを引用掲載させてもらうことにします。
 このところソング作りの話に片寄ってしまってますが、次回以降また別の話にも広げて行くようにしましょう。 音楽ジャンルの中でもかなり人口の多いソング作りの部分では、あるサイドから重要な中味かと思ってます。(前回同様インデント付が「長谷部さん」、なしを「とし」として進めますね。) 今回は譜面での提供が主だと云う長谷部さんについて、私の発言からオンです。

まだじっくり見ていませんが、2曲ほど譜面を拝見。 そもそも私がコンピュータでの音楽制作に携わるようになったのは、時代と仕事の成り行きのせいでしかありませんので、私にとって譜面をながめて曲をイメージすることは、大きな快感のひとつです。 即物的に無神経な音が出てしまう(ちょっと可哀相な表現かナ?)よりは、ずっと音楽が膨らむ感じがします。
(管理人 註 = 少し乱暴な表現をしていますので、コンピュータでの無神経ではない(?)音の制作について、また後日触れます。)

> ところで、「仕事場から」の10月号、興味深く拝見しました。
> 「感性の赴くまゝの作編曲は自己満足の域を脱することはなかなかない。他人
> が聴くに堪へうるものにするには、あるいは、より‘確かな’ものにするには、
> 楽理による基盤があることが求められるし、事実どんな曲でも、きちんと仕事
> をしてゐる作曲者の手になるものは、さうした裏付けが認められるものだ。」
> と、勝手に解釈しましたが、単純な言ひ方をすれば、「これが、(プロ意識を
> しつかり自覚してゐる)プロ(もしくは、しかるべき知識を持ち、それを応用
> できるセミプロ)と(純粋な)アマの違ひ」なのかと思ひました。

そう思います。 ただそれは「アマだからそうする」「プロならそうしない」ではなくって、作る人が求める基準で(それが判りにくかったら作りたい姿勢で)最善のものができる方法が良い作曲につながると言いたいのですが…。「作曲をするために何かやるべきことが決まっていて、そのとおりに進めて行く必要なんて必ずしもないんだ」と云うことが言いたいんです。

> 翻つて自分の作曲はどうかといへば、もちろん純アマでして、前回お便りした
> やうに和声理論を覚える気もない、といふのですから、生み出される曲が一体
> どんなものかは想像がつきませう。その答へが上記のアドレスにある訳です。

長谷部さんの作品は、きわめて自然でてらいも気負いもなくて、とっても良いんじゃないでしょうか。 曲付けそのものを、大切に楽しんでる気持ちが伝わって来るようです。 きわめて上質と思いますよ。

> でも、いいんです。私は第一に自己満足でヨシとしてゐます。ならばWWWに
> 掲載するとは何事かと問はれゝば、作詩者がWWWにアップした詩に対しての
> 作曲だから、と答へませうか(笑)

ハハハ、名答ですね!

> または、旋律を素材として広く編曲を募る、といふ姿勢なのかもしれません。
> ただし、私は楽譜には拘はります。‘演奏技能の低さ’がさうさせてゐるもの
> と思はれますが、想起した(、また創起させた)メロディーを楽譜にすること
> を楽しみのひとつにしてゐます。

これは、ほんとうにありますよ。 もう20年も前になるだろうか当時まだ楽譜も全て手書きで、自分の頭で煮詰まった作品が「今度は楽譜としてどういうフィギュアで現れて来るのか」は、書き進めて行く上での大きな楽しみでもあった記憶があります。

> ちなみに、私も、詞の付いた曲を作るときは、今は、ほゞ100%、詞ありき
> で旋律を創起させるべく想起に努めます。
> ただし、詩が持つてゐるリズムとかメロディーを自然に活かすといふよりは、
> (曲に詞をはめ込むやうに、)詩に曲をはめ込むやうな傾向があることも自覚
> してゐます。だから、私が詩に曲を付ける際には、曲に合はせて詩を変へると
> いふことは一切しませんし、有節歌曲では各段(1番とか2番とか)で異なる
> メロディーにすることもあります。

さきほど拝見した譜面からでも、かなり判る気がしますよ。 良いんじゃないでしょうか。 私も詞にたいしては、まず手を加えません。 それから、歌詞だからテキストがこうあって欲しいと云うことも、今は全然ありません。 字数がどうの、韻を踏んでない(日本語の文化では無視できると思う)の、接続詞があっては等々、一切関係なしです。
どんなテキストでも、どちらかと言うとなるべく私たちの普段のコトバであればあるほど、素敵な歌になって行くように感じています。

> でも、単語や文節などの区切りを無視するやうなリズムで曲を付けることは、
> できるかぎり避けるやうにしてゐるつもりです。このことは、例へばこの電子
> メールにも、語の最小単位を分断する改行を極力避けてゐる、といつた癖にも
> あらはれてゐる、と思ひます。以前は、語の発音に合はせた起伏のメロディー
> を書かうと腐心しては失敗したなどといふこともありましたが、同じ言葉でも、
> 地域によつて、人によつて発音は異なるものだといふことに気づいてからは、
> さういふ腐心はやめました。

文節云々はまったく同感です。
ただ、私は詞のイントネーションとメロディとの関連には、常に細心の注意を払います。 それは長谷部さんが書いてらっしゃる意味とは多分少し違うかと思いますが、自分のメッセージとしてより日本語を作品に関わらせたいと考えて、その手段のひとつとしてかなり重要な位置づけをしているからなんです。 この部分は、自分の中ではもうかなり系統立っていて、かつては「これで1冊本が書ける〜」などと話していたもんです。(ちょっと横道に外れましたね)

 いかがでしょうか。 ソングでも歌曲の場合でも、下の10/19欄ともう一度あわせて考えていただけると、よりはっきりしてくることゝ思います。 私の発言については当欄用に段組みをし直していますが、長谷部さんの発言はメール通りです(中間部分をそくっり省略カット等はありますが)。
   
b y とし
   
   
   
Update 10/19
●「長〜いメール」で作曲談義!
   

 自分のせいで溜めてしまっていた返信メール、昨日の藤原さんへの「長〜いメール」でどうにか追い着きました。 この「長〜いメール」は、化学生命工学研究室の学生である藤原直彦さんが、"N.Fujiwara's homepage" で配布している自作の作品テープについてのやり取りからスタートしたものなのですが、ソング作りにとっての大切な要素にも触れることになってきたので、ご本人の了解をもらってその一部を引用させてもらうことにしました。(インデント付が「藤原さん」、なしを「とし」として進めます。)
これを読んでくださる方には話の途中から参加していただくことになる訳で、始めちょっと流れのわかりにくい点があるかとも思いますが、作曲上の「統一」と「離反」の話の部分からオンすることにします。

> まず、離反というものについて、単語的にというのか、定義として知ったのは初
> めてでした。ああ、たしかにあるな、そう思いました。

これは私や私の周囲がそう表現しているだけだと思いますので、業界 (この世界?)の普遍的なコトバではありません。 ただ、表現は違っていてもまず共通の概念は持ってますね、きっと。

> 私の曲の作り方は、いつでも詞が先です。
> これは(やっぱり)さだまさしの影響だと思いますが。
> というのは、さだまさしは、私達兄弟が小さい頃から聴き親しんできた歌手で、
> その彼が”日本語がメロディーを呼んでくる。”というようなことを言っていた
> からです。

さだまさしさんの件は知らないのですが、掲示板にも書いたようにその点については全く同感で、私のソング類に対する制作は100%詩からのスタートです。 しかしながら、メロディを先に作って詞をハメ込む作り方(ポピュラーでは絶対多数派)を、否定するつもりも非難するつもりもありません。 要は、その人が作ることのできる最も魅力的な作品にさせ得る方法を、採ることが一番と考えていますので。

でも、ソング/歌曲については以下の理由で、私はまず詩からの想起(創起)なんです。
先ず、メロディ/リズム/ハーモニーから魅力的な音楽を生み出そうとした場合 、その作品には敢えて後からコトバを付ける必要のない音楽的純化を進めて行ける可能性の方がはるかに高い、ということを体験的に感じている。
逆にソングを/歌曲を作るのであれば、詩/コトバから音楽を想起することで、必然的にその作品にコトバの存在する意味をも発生させて行く。
私にとっての「純音楽的(インストゥルメンタルなと云う意味でも可)な作品」と「うた」とのハッキリした境界線になっています。
コトバと云う要素が存在する作品を書くからには、添え物としてではなくてそれが「なくてはならない」と云うところにまで持って行っておきたい。
ただ、また戻ってしまいますが、その人自身の中での比較の問題として、ハメコミの方がその人にはより良いものが作れるのであるならば、そのより魅力的な作品を作れる方法の方を選ぶべきだと考える訳です。

> つまり言葉にはちゃんとメロディーがあり、それに逆らうような旋律は馴染まな
> いと。
> そういうことです。

まったく同感です。 また私ごとで脱線ですが、コトバからの想起による作品で、8月のこのコーナーに書いた小林亜星/服部克久両氏のような、パクリ云々を気にかけたことはまずありません。 それだけ私は、コトバからの想起やコトバの持つ音楽的キャパシティの大きさに、まだまだ充分な信頼と魅力とを感じている真最中なのかも知れませんね。

> なので、ギターを適当に鳴らして、浮かんできた旋律を少しずつ歌詞といっしょ
> に歌っていきます。そうするうちになんとなく展開がでてきます。あ、ここで短調
> にしよう、とかではなく、違う、体が欲しいのはこんな旋律だ、というような感じ
> で旋律を作ります。
> 歌いながらというのはとても大きい要素で、気持ちよく歌えるように、というの
> が一番重要です。詞を見ながらやるので、無理な旋律は出てこないし、若干
> 2番と1番は変わってきます。
> 意図的に(”最終列車”のように)ループを繰り返すとか、AメロとBメロだけで
> を作るとか、決めてつくることもありますが、あくまでそれは思っていることであ
> って、曲の方がそれを望まないときには全然威力を持ちません。

曲を作ると云うことに関して、十人十色の取り組み方があって当然です。 でも、もしかしたら参考になるかも知れないので2〜3書いてみましょう。

何のためにハーモニーを始めとした基礎的といわれる部分の力を付けようとするのか、あるいは本格的に取り組みたいと云う人にはそれを奨めるのかと云うと、まずは本人の作曲上の便のため、そしてもう一つは自分の音楽を自分以外の人へ手放して(巣立たせて)あげるためとも考えます。 プラモデルを「自分で作る喜びを享受すること」と、さらに素晴らしい仕上げを施して「第三者にも見せられる出来映えのものにするためのテクニックを身に付けること」との差、とでも言ったらより判りやすいでしょうか。

当然のことながらも、「音」であると単に抽象的に捉えてしまったり、感覚的に語ってしまってもそれで良しとされることが多くて、やれ「神秘的」だの「音楽の不思議な力」だのと云うような表現でごまかされたり、片づけられたり、妙に賞賛されたりしがちですよね。 でも、もしそれが文章の朗読であったとして、気持ちよく響くであろう耳触りの良さそうなコトバの羅列だけで、文法に沿っていないテキストであったとすれば、単なる音でしかない、知的なメッセージとなり得ないものを聞く意味って何でしょうか。

「夢のかわいゝ〜、静かな〜そっとさゝやく髪のやさしさ〜、ア〜ア〜〜????」ウ〜ン、いゝ曲だぁ…なんてことになってるかも知れません。 赤面ものですよね。 例えばかりだけれど、言いたいこと伝わるかナぁ? 「音楽だからこそ原始の鼓動を」と云うスタンスが考えられなくはないですが、私はそれ以外のスタンスの選択範囲の広さの方にも魅力を感じてしまうのですが…。

> 編曲についてはその場で作っていくこともあるし、何度かベースの曲を聴いて
> 思いつくこともあります。どちらかというと前者が多いですが。
> 基本的にすべての旋律に楽譜はありまん。全部即興です。それでいいのか、
> という話はあるけれど、結局私の場合テープと街頭ライブとは違うわけで、ギ
> ターのコードと歌詞だけあれば、人前に立てるわけですから。

第三者が耳にすると云うところまでゞ良いのだとすれば、上記と同じ理由で「それも音楽の存在のさせ方としてあって良い」と思います。 でも、もう少しメッセージとしての役割を強めたくなってきたりすると、巣立たせてあげる技や、自分のプラモに目を見張らせるテクニックの必要性も感じるようになってくるのではないかとも思いますよ。

> 書いたとおりなので、つながりにむりがあるとか、先のことと繋がっていかない
> とか、そおいうことは一切気にしていません。ただ気持ちいいように、自然に聞
> こえるように、と作曲、編曲しているに過ぎません。
> 私には今のところそれでいいのでは、と思います。
>  
> 体が欲しがっているのかどうか。曲が欲しがっているのかどうか。
> それが作曲、編曲の上での信念でしょうか。

私の考えは上記の通りなのですが、結局その人が作れる最も良いものができる方法を選択することが一番良いですよ。 とくに、業として行こうとか或るラインを超えて追及することを問題としない環境である場合ならなおさら。 もう、三度目になりますね。

私の意識では、曲の想起はきわめて感覚的な空間作業と思っていますが、作曲の実作業そのものは、メッセージとしての「文章をきちんと書こうとする手順や技術の集大成」と表現する方が当たっているように感じられます。 その両方ともを感覚的に作業してしまおうとして、結果、神秘的な作品(?)になってしまうんじゃないかナぁ…。

実際モーツァルトもベートーベンも、それからきちんと書くポピュラー作家の作品も、その視点での解析にはビックリするほど雄弁に答えてくれるんですよ。 それは、またの機会ですね。
   
b y とし
   
 
 

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