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PAGE INDEX 「仕事場から」玄関へ
 ●「オケピットは音がいい?」 Update 09/27
 ●「人気のバレエダンサー、
    熊川哲也さんの対空時間は不自然?」
Update 09/13
   
   
Update 09/27
●「オケピットは音がいい?」
   

「貧乏暇なし」とはよく言ったものです。 まぁ、この時期の慌ただしさは毎年のことなのですが…。 時間が過ぎて行けば、いろいろ新しいことや面白エピソードも溜まってくるのでつい話がよこ道に逸れてしまいそう…。 でも、男に二言は禁物(そこで笑ってるのはだれだ〜〜〜ッ!)ですから、きょうは約束のオーケストラピットにまつわる話から。

 昔々、私はスーパーあがり症でした。 数多かった試験や数少ない本番など、ホラ!想い出すのもイヤですネぇ。 それがお客さんに背を向けるようになってから(?) ──音楽的にではなく物理的にの意味ですよ──パタッとあがらなくなりました。 そうです、指揮をするようになってから。 今ではスタジオの調整室での居眠りが主で(事実その傾向もあるのですが我々はその前が大変なんです…)あがりようもなくなってしまいましたが。

 オケピットに入っての演奏と云えば、前回に触れたバレエやオペラ、ちょっとやわらかくなって劇伴からサーカス(?)まで。 サーカスのバンドをジンタと呼んだりして2階席、3階席辺りのボックスでも演奏してますよね。 私はそこまでの歳でもキャリアでもないのでサーカスはさておいて、オペラ狂いだった'78〜'88頃(もちろん今でも大好きですが)に、色々なスペースでの演奏を余儀なくさせられた、苦くも楽しい想い出がたくさんあります。

 小さな公民館のサロンステージでむろんオケピットなどなくって、ステージ下の脇に身を寄せあって演奏したこと。 今では最初から外すことができる設計になっているところも多くなってきてますが、当時400〜600キャパの中ホールでは前席数列を無理やり外した臨時ピットで演奏してたこと。 埼玉のある公演では指揮者用の椅子がなくて、協賛してくれていたお寿司屋さんが急遽持ってきてくれた、カウンター椅子(たしか絣の座布団が付いてた)にタキシード姿で座ったこと。 またある時は、本番ステージに登場した唱い手の目が、なんだか宙を舞って虚ろにキョロキョロ! 唱い出しもそろわない! なんだ、なんだ〜? 何と指揮者用のスポットが落ちていなくて、ライトの集中放火を浴びている彼女には私の姿が見えなかったんです … 等々。 普通のピットに入りた〜い!

 そしてやっとオケピットと言えるものに納まったのが、東京:新宿文化センターの大ホール、モーツァルト"魔笛"の公演でした。 でも、でもね、大きいU字溝の中で弾いているようなオケの音は、こもって解像度のよくない古いステレオセットの音みたい。 そしてとにかく唱い手が遠い、淋しい、心細い! 指揮棒と演奏者を結ぶ音楽線(?)に距離的な限界があるんだと実感したのもこの時からでした。 ただそれは唱い手方にとっても同じことで、それまで未経験の一体感を生み出すことになったんですが…。

 カラヤンやクライバーなら、本人が望むと望まざるとにかゝわらずひときわ高い指揮台を与えられたりもするのでしょうが、ピットから首を出す程度の私たちの場合は「ソロも合唱もみんな頭の上を素通りでまとまった音に聞こえてこない!」と云うのが、長いあいだの夢となってしまっていた"普通のピット"の第一印象だったわけです。
 オケプレイヤーサイドからは、バレエなどでかなりの埃をかぶることを覚悟する以外は、お客さんの目にさらされずに演奏できるためか、割に好む人も多いようですよ。
   
b y とし
   
   
   
Update 09/13
●「人気のバレエダンサー、熊川哲也さんの滞空時間は不自然?」

   
 
*ご希望いただいて今回から文字サイズ等変えてみました。ご意見ありがとうございます。

 ずいぶん間が空いてしまったです。 でも、思ったよりたくさんの方が来てくださっていてビックリうれしいです。 ご意見などもぜひ聞かせてくださいね。
 私は、比較的バレエ関連の音楽を手がける方ではないかと思いますが、自分の意志であるかなしか(?)は別にして、重力と云うものゝはたらくこの地球にいなければならない中で、「自然さ」を感じることのできる音楽に携われたときのその快感と言ったら、もうない!ですね。 この片手間的な「仕事場から」のメッセージなんか(すいませーん!)では、とうてい表現し切れないくらいの素敵さ、素晴しさなんです。

 指揮動作とそこから生まれる音楽との関連にもよく感じることなのですが、バレエの身体の動きの美しさや自然さも同様に、当然ながら重力の作用下でのプレイが前提であったり、またそれへの反発や挑戦から組み立てられて行くのでしょう。 言い替えると、第三者への見え方は別としてアクターが重力から解放されることはない…。

 何を隠そう!早起きが死ぬほど苦手の私ですが、遠方の仕事へ向かう際などにたまに耳にするNHKラジオ体操のピアノ(毎回違う演奏なので、あれは録音ではなく生演奏なのかな?)が、なかなかの名演であることが多いのです。 理由のひとつはもうお気付きですよね。 それは私にとっては充分にうなづくに値する根拠です。

 そしてこれはもちろん身体動作やプレイ(演奏)だけに言えることではなくて、作曲・編曲上の音の連なりや重なりにしても、同じことが言えたり感じたりできます。 ひとときもてはやされていた(今もかな?)ヒーリングや右能を癒すα波の音楽などでは、さらにその辺り───自然さの追及と云うのか───を特化して掘り下げて行くことになるのでしょうが…。
 曲の構成上で考える統一と離反の「離反」については、私たちの経験と腕(さてどうかナ?)で自然さの中への存在を図って、逆の意味での快感や価値を生み出そうとする一要素として行く訳だから、自然さに相反することをしているとして気にする必要はないと思うのですが、時として奇をてらった意外性を求め過ぎてのあまり、せっかくの才能が顔を隠してしまっているのではないかナと感じる作業(演奏)や作品に出会うことがあって、それはそれはがっかりしたりもします。

 次回は「オケピットは音がいい?」について話をしますね。
   
b y とし
   
 
 

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